|戻る|  

地域イメージの分析
1―2.横浜市のイメージ

 

・横浜は、「浜ナン」(自動車の横浜ナンバー)に代表されるように、若者に人気があるまちである。となりまちなのに「川崎ナンバー」はとかく揶揄される。横浜は、常にオシャレなまちとして、女性誌によく採り上げられる。埼玉が女性誌に採り上げられることはない。テレビドラマのロケにも、山下公園、レンガ倉庫、八景島などはよく使われる。美味しい(または、オシャレな)レストランがテレビで紹介される。埼玉のレストランが紹介されることはない。

・雑誌「THE21」(PHP研究所、1993年)で調査した東京のOLが行ってみたい街の第二位(一位は神戸)に選ばれている。横浜といって連想されるものは、「港」、「中華街」、「山下公園」である。

・なぜ、楽しくて、オシャレなイメージができたのか。

・歴史的な背景として、神戸と同様に、開港5港の一つであった。このため、かつてはハイカラなもの、今でも何か新しいものがある、非日常的な体験をすることができると期待される。そして、それに応えてきたことで、人気のある街になっていったと考えられる。

                    [横浜開港後の中華街での「事始め」年表]

(1859年) <横浜開港>

 1860年 /バーの開業/ホテルの開業/ビリヤードの開始/

 1861年 /キリスト教会堂オープン/牛乳搾り場の経営開始/

 1862年 /喫茶店の開業/仮説競馬場のオープン/

 1864年 /民間新聞の創刊/

 1867年 /外国産ビールの輸入販売/広告欄のある新聞の創刊/乗合馬車の開業/

(1868年) <明治維新>

 1869年 /理容店の開業/

 1870年 /外国人劇場ゲーテ座のオープン/

(1872年) <横浜−新橋鉄道開通、馬車道でガス灯点灯>

原資料)半澤正時「横浜ことはじめ」(神奈川合同出版、1988年)
資料)  菅原一孝「横浜中華街探検」(講談社、1996年)


 [港のイメージ]

・港の風景@雰囲気をみて感じたいという期待にも応えている。山下公園、港の見える丘公園は昔から有名であったが、ベイブリッジも港の一つの景色にした。川崎では、人は海を見ることができない。


[都市開発]

・みなとみらい21地区については、横浜=国際的な街というイメージをアピールするために、まず、1都3県の話し合いの中で国立国際会議場を誘致した。三菱グループと協調して(鉄道や道路などのインフラ整備やテナント誘致優遇策を講じるなどして)、ランドマークタワーをはじめとして、オフィス等の建設を進めた。


[遊びの機能]

・常に新しいもの、全国で初めてのものができてくる。ニチイ(現マイカル)が手がける複合的な街@マイカル本牧、セガのジョイポリス、新横浜ラーメン博物館、八景島シーパラダイスなど。特に、規制の厳しい水辺をアミューズメント空間とするためには、行政との緊密な連携が必要であったが、八景島では、それが実現した。


                [近年横浜市内で開業した話題の施設]

開業年月
施設名称
備考(主体・用途等)
1989年 4月 マイカル本牧  (マイカル、商業施設)
1989年 4月 横浜アリーナ (キリン、17,000席の大規模ホール)
1989年10月 ベイブリッジ (首都高速道路)
1991年 8月 ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル (パシフィコ横浜)
1992年 6月 ワイルドブルーヨコハマ (NKK、屋内型造波プール)
1993年 5月 八景島シーパラダイス (西武・京急・日産自動車、遊園地)
1993年 7月 ランドマークタワー (三菱地所、オフィス・商業・ホテル)
1994年 3月 新横浜ラーメン博物館 (展示@テーマ飲食)
1994年 4月 国立横浜国際会議場 (国、会議場・ホール)
1994年 7月 横浜ジョイポリス (セガ、アミューズメント施設)

1997年 7月

クイーンズスクエア (ショッピングセンター、ホテル、オフィス)

1998年10月

横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ (相鉄・高島屋、ホテル)
1999年 3月 よこはまコスモワールド (遊園地・大観覧車)
1999年 9月 横浜ワールドポーターズ (マイカル、ショッピングセンター)

[中華街]

・中華街なるものがあって、そこに行けば本場の料理が味わえて、中国のものがなんでも買えると期待され、イメージされていたので、かつては荒れていた街も誰もが安全に歩ける街にした。

・もちろん中身も、自由競争のもとで飲食をはじめとする店舗が出入りする活気のある街としていった。中華街に本店をもっていると、全国どこでも有利な条件で出店できるといわれている。それほど「本家@本元」としての威光があるのである。

・中華街は、歴史が深いものではない。もともと居留地にいた中国人がその一角に屋台を出していただけである。終戦直後は、20軒程度の集まりだった。モノ不足だった1950年前後にモノが豊富な中華街が脚光を浴び、多くの(昭和20年代に95店)店舗が生まれた。さらに、日中国交回復(1972年)以降、急速に店が集積していった。現在は、200店近くの中華料理屋がある。ちなみに神戸市の南京町は85店、長崎市の中華街は45店である。

                   [中華街における中華料理店舗数の推移]

        資料)  菅原一孝「横浜中華街探検」(講談社、1996年)


・中華街で食事をする人は、地域外の人が多い。ある調査によれば、市内は3割、市外県内は1割、県外6割であった。

・年間1,800万人の人が訪れる。ディズニーランドより多い。客単価は、正確には分からないが、修学旅行生で5,000円くらいという調査結果がある。日本で最大の外国村型テーマパークである。

・横浜市には、中華料理屋は多くない。都市別にみると、人口当たりでは、12大都市中8位である。集積することによって、イメージを作り上げている。

・なお、中華街は、昭和20年代には、外国船員が多く出入りする街で、密輸品の取り引き、闇ドルの交換、博打などが横行する場となり、また、やくざ映画のロケ地としてしょっちゅう利用されていた。このため、当時及びしばらくその後は、神戸と同様に、「中華街=やくざ@麻薬の街」というイメージが作り上げられていた。その後、地元の努力により、暴力団の事務所の一つもなくなり(最後は1990年に消滅)、世界で一番安全なチャイナタウンとなったのである。

[横浜市のイメージづくり]

 まわりから何となくそうかなと思われていることを明確に示して、誇張することが大事のようである。そうして、漠然としたイメージ(国際性、港の風景、遊び場など)=期待に応えていくことが重要である。物理的には、横浜の中華料理にせよ、神戸のファッション産業にせよ、集中させることが効果を倍増させている。

 やはり、常に新しい動きを起こしていることが重要である。新しい人やモノ、考え方を受け入れる環境@雰囲気(市民も企業も行政も)が最低条件として必要である。(→つづく)

ページトップに戻る